教員生活

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工学部における研究とは

私は数学科出身だが、工学部のIT系に採用された。そして、研究分野もIT系に転向することも求められた。受け入れ先の教授が母校の教授に求人して、私が紹介された。選ばれた理由は、自覚はないが下の者をよく面倒見ているということだった。数学では業績を...
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カラ出張

最近では監視が厳しくなってあまり見られなくなったようだが、着任した頃には大学教員のカラ出張が容易だった。独法化以降に激減した気がする。カラ出張の最大の要因は予算に融通が利かなかったことだ。予算の費目が物品費、旅費などに分けられ、出張費が余っ...
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プログラミングの母国語

母国語と言っても日本語とか英語とかの話ではなく、初めにどの言語でプログラミングを学ぶかということである。上司の響教授曰く、「初めに学んだプログラミング言語がマザーランゲージとなる。プログラミングの発想を決めるマザーランゲージは変えることはで...
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デザインパターンの実装言語

すでに教員を辞めているが、教え子達と年1,2回程度飲み会をしている。ほとんどは私の研究室出身ではなく、学生の時からIT技術に関しては私より遥かにレベルが高かった。彼らの年齢は40前後であるが、いまだに付き合いがあるという奇妙な関係である。そ...
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教員の常識 社会人の常識

1990年代前半に、大学を中退して助教として響教授に採用していただいた。この時点で、社会人としての常識は乏しいものと当然考えられ、これから身に着けていかなければならない。響教授は大手企業の研究所出身である。民間の出身として本人が言うには、多...
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IT教授の素因数分解

私は響教授に採用していただいて地方国立大学IT系の助教となった。響教授は私を連れて母校に私を紹介してくれた教授に挨拶に行った。響教授は学部だけは私と同じ数学科の出身で面識はなかったものの先輩にあたる。挨拶先の研究室には数学を専攻する学生が出...
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1990年代の大学教員人事(2)

1990年代後半になると、学位無しでは職に就けない時代に移行し、採用される助教は当たり前のように学位をもっていた。前半なら採用されて間もなく昇進できただろう。情報系での助教は3名、いずれも学位を持っていなかった。電気系でも同様だった。このよ...
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1990年代の大学教員人事(1)

私が就職した頃の話。1990年代前半に私は数学科の博士課程をD2で中退してある地方国立大に助教(当時は助手と呼んでいた)として採用された。学位(博士号)は当然ない。これは旧帝大級に限ったことかもしれないが、当時の数学の世界では、課程博士が取...
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医学部の神経内科医

前回は学内のイベントで医学部の脳外科医と接する機会(医学部の脳外科医)があったことを書いた。今回は私が医学部の教員に診察を受けた話である。 一過性黒内障という視野の半分が突然欠損するという病気に悩まされていた。当然ながら初めて症状がでたとき...
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医学部の脳外科医

「脳外科医 竹田くん」を読んで自分が勤めていた大学の脳外科医を思い出した。技量については分からないが、思想がやばそうだった。参加していた医学部の学生も同様だった。 私の勤めていた地方国立大は一応は総合大学で医学部もあった。全学で学生との交流...