研究テーマへの批判(2)

初論文掲載後もニューラルネットワークの研究を続けていた。一方で、着任時は響教授も「やわらかい情報処理」と称して主要な研究テーマにしていたが、研究対象から外しつつあった。学生からも「ニューロは将来が無いからやめる」と響教授が言っていたと聞いた。そして、私にも分野を変えるよう求めてきた。最初は2本目の論文が掲載された後だった。「ニューロはもう十分だろう。これからは別の分野、研究室で行っているような研究をしなさい。」響教授は以前から「IT研究者は専門家になってはいけない。幅広く研究しなくてはならない。」と語っていた。実際、研究室のテーマは多岐に渡っていた。当時は、仮想現実、ゲーム理論、機械学習に取り組んでいたと思う。各テーマは3年ほどで飽きて別のテーマに移行するため、論文という点では全く成果は上がっていない。教授はこれ以上昇進することがないので、論文が増えなくてもさして問題ないのかもしれない。私だって今の研究が順調に進んでいるわけではなく、適切なアドバイスがもらえるのなら研究室のテーマを研究する。ゼミには参加しているので、それなりの勉強はしている。しかし、ニューラルネットワークの時と同様に響教授は素人同然で、研究のレベルに達しているとは到底思えない。私の印象では単なる実習に過ぎない。「研究室の研究は成果が上がっていないではないですか。」と返すと、「あれはあれで成果が出たんだ。」と言われた。研究集会で発表する学生はいたが、査読に通った研究は1つもなかった。研究室内では研究の価値は教授自身が評価して勝手に満足していれば良いが、これから昇進の評価にさらされる立場ではそうはいかない。響教授は私の研究を現実の役に立たない自己満足だと言う。確かに現時点で直ちに応用されることはないが、将来的に役に立っても不思議はない研究だと思う。逆に、論文として公開しない研究は、公開する意味のない研究だと認めているようなものだ。

数年後に2度目の勧告があった。今度は「ニューロの研究を止めろ。続けてもニューロの人間と思われるだけだ。ニューロの研究者は多すぎる。またニューロかと言われるだけだ。研究室のテーマを研究しろ。」と言われた。「論文を書けば書くほど評価が下がると言うことですか。」「そうだ。xx大学ではニューロとGAの論文は評価しないと言っている。」他大学の教授と話したらしい。二人とも偏見としか思えない。実際に xx大学では、その後もニューラルネットワークの教員を採用している。
 私「研究室から論文は全く出ていないですね。」
 響教授「しょせん学生がやったことだから仕方がない。」
学生の研究が論文として掲載されている研究室も多い。採録されるような指導をするのが指導教員の役目ではないのか。配属される学生のレベルが低くはなかった。学年の1,2番が揃って配属になったことも2度あった。それでも、論文は言うまでもなく、国際会議にも参加できなかった。研究室のテーマが採録されるような論文になる想像ができない。承諾しても結果がでなければ、また責められるだけだ。「私には理学的な発想しかできなくて、研究室のような工学的な発想で研究するのは無理です。」と能力不足を認めて逃げた。響教授は「理学的な発想が使える課題もある。」と更に要求してきたが根拠があるとは思えず、物別れに終わった。

研究室のテーマを断り続けていた私だったが一度だけ有力なテーマがあり、ニューラルネットワークと並行して研究しようと思ったことがある。機械学習だった。特に decision tree というモデルに取り組んでいた。正解率という明快な評価基準も私としても受け入れやすかった。取り組み始めて 1,2年後に、情報収集のために統計的機械学習のイベントに出席した。そこでは decision tree は限界が見えていて、すでに時代遅れのモデルであった。SVM やベイジアンネットなどが主流になっていることが分かった。「decision tree は研究対象としては時代遅れで、別のモデルに移行しているようです。」と響教授に報告した。響教授は急に不機嫌になり、「日本の研究者はすぐに新しいものに飛びつく。だから地に足のついた研究ができないんだ。日本人の悪い癖だ。」と他の研究者を批判した。響教授も3年ほどで飽きて、別の目新しいテーマに飛びついてしまうのだが、自分の研究対象が否定されたことが気に入らないらしい。私としては decision tree を続けても成果は上がらないので、あっさり撤退することにした。