私が助教として所属していた響研究室では博士課程の学生が6名在籍した。初めの2人は学位を取得できなかった。次の2名は民間企業の研究所に在籍する社会人であって、彼らは自分たちのテーマで取得した。最後の2名はアジアの発展途上国の教員で博士を取得するために留学してきた。自然言語処理を専門とする准教授に共同研究を持ち掛け、研究指導を事実上任せてしまった。国際会議2という緩々な条件なので楽々に修了できた。基準はなぜこれほど緩いのか。元々は論文2だったようだが、それでは厳しい学生もいるので、1つは国際会議でも許しましょうということらしい。それでも、3年で修了できる学生は珍しかった。学位を取れない学生も珍しくない。後から振り返ると、学生のレベルではなく、指導教員のレベルだったように思う。指導教員の指導能力というよりも研究能力が乏しかったのではないか。他大学の教員に学位の基準について話すと、「論文無しでは就職できないのでは。そんな学位に価値はあるのですか。」と返ってくる。確かにアカデミックなポストに就くのは難しいだろう。社会人や留学生の場合は学位があれば良いだろうから問題なさそうに思う。学位が必要な理由によるだろう。アカデミックポストを狙う場合は緩い基準に甘える訳にはいかないが、簡単に同じ学位を授与される者がいると納得いかないものがあるだろう。
内規に「査読付き論文または国際会議論文を2」と記載されたため、響教授はほとんどを国際会議で通してしまった。4名の博士の業績で論文は1つだけだった。審査員は響教授が選ぶ。「1つは論文がないとダメですよ」と言えるような教員はいない。このような前例ができれば、他の研究室も許容せざるを得ない。こうして規律は乱れていった。そのうち、国際会議の方が論文より価値があるなどと言い出すようになった。響教授の主張は次の2点である。
(1) 論文は日本語でも良いが、国際会議は英語である。
和論文と英論文に分けて評価すれば良いはずだが、論文という括りに拘ることで主張を通したいようだった。
(2) IT分野は日進月歩であり、すぐに時代遅れになる。速報性の高い国際会議に価値がある。
国際会議で発表後に論文を書くのは研究発表の1つの手順と思われるが、論文になるころには時代遅れになっているという。とてもそうは思えないが、時代遅れでも、せめて博士課程には書かせろよ。
最初の2人はなぜ学位を取れなかったのか。留年を含めて上限6年と思うかもしれないが、実際は3年の休学も入れて9年である。9年間で国際会議2が達成できなかったのである。1人目は個人事業主だった。優秀だった。1990年代初めに分散環境で動作する並列 Lisp インタプリタを開発していた。10代以上のワークステーションがファイルサーバを NFS で共有する環境を利用できるのは当時では限られていただろう。早々と1回は国際会議で発表したが次が出ない。この時点では、1つは国際会議で代用して、次は論文が必要という考えだったようだ。1業績あれば中間発表が可能で、単位取得退学後も所定期限内であれば課程博士を取得できる。しかし、優秀だったにも関わらず、最終的に学位は取得できなかった。
タイトルの「博士論文の価値」とは基準の話ではなく、研究分野の話であって、ここからが本題である。2人目の博士課程は学部から修士、博士と進学した。彼は博士課程に進学してから研究分野について響教授に相談した。おかしいと気付いた人もいるだろう。本来なら修士課程からの研究を継続するはずだ。しかし、彼は修士課程で何も研究しなかったのである。何も発表できないので、卒業研究の内容をもう一度発表した。こんな修論が認められるのはおかしい。しかし、副査は響教授が依頼した准教授2名であり、響教授が通せと言えば逆らえない。当時の公聴会は主査、副査、同じ研究室の学生ぐらいしか聞きに来なかったので、修論の現状は学科全体にまでは伝わらなかった。こんな修論で博士進学を許した件の可否はさておき、彼の研究はテーマ決めから始めざるを得なかった。彼は人工生命を研究したいと申し出たが、却下されたという。そんな分野はもう研究しつくされて何も残っていないと怒鳴りつけられたそうだ。人工生命はまだ若い分野であり、おかしな話だ。響教授の部屋で尋ねた。
「人工生命にはもうやることは残っていないという理由で却下されたと聞きましたが、そうなのですか?」
「いくらでもやることはある。しかし、そんな研究に意味はない。博士号として評価されない。」
どうやら、響教授は人工生命を蔑んでいるようだ。そして、何の研究で博士号を取ったかは一生ついて回るとい言うのだ。彼は私立大学で非常勤講師をしていた。授業の評判は高かったという。研究者として一人前にはなれないだろうが、学位さえあれば常勤になれる可能性がある。だから、どんな学位でもあった方が良かったと思う。どういうわけか、教育を研究することになった。ある学会誌では教育実践の論文も受け付けているらしく、私大で行っている教育を分析して投稿するというのだ。もはや工学ですらない。人工生命は不許可で、これは許されるのか。結局、論文投稿には至らず、業績がないまま9年間を過ごすことになった。学部から数えると12年である。